夜明け前
ここは異界である。
現れる物の怪も知らぬものばかり、空も大地も人の世界の物に似ていながら、見慣れぬ獣や草木を育んでいる。
初めて訪れた場所にも関わらず、懐かしさを覚えるのは実の妹がここで暮らしているから、というだけではあるまい。
記憶には無くとも、ここがお前の生まれ故郷なのだと、血の流れの深みから囁く声がする。
鬼の声だ。
猛き力持つ、まつろわぬ者の血を、彼は受け継いでいる。
だが、
──力なんか、無くてもいい。
鬼雷石を無くし、鬼の姿で彷徨っていた彼を見て、人々は脅え、あるいは石もて追い、逃げまどった。
仕方がなかった。
人間には、悪鬼も善鬼も区別はつかぬ。
ただ醜くおぞましく、恐ろしいものにしか見えぬ。
そして人間を恨むには、彼は優しすぎた。
己の血の秘密も宿命も知らなかった頃、彼を取り巻いていたものは軽蔑と嘲笑だった。
それから月日を経て、己の力と宿命を知ってしまった今、彼が守ったその世界は恐怖と憎悪で彼に報いた。
どんな妖怪をも屠る力を得ながら、彼は自分の居場所さえ手に入らなかった。
だが、
少なくとも、今、彼は独りではない。
だから、彼は密かに誓った。
例えこの手足がちぎれようと、鬼の力は使うまい。
例え死んでも、この戦いで鬼の姿にはなるまい。
血の力に頼らず、人としての自分が身につけた力で戦うこと。
彼にそれを教えた、誇り高いあの男がそう生きているように。
──決戦前夜。
天地丸は従兄弟たちから独り離れて、その男の元を訪れた。
あやかしの眼を欺き、夜の荒野を急ぐ。
この戦いの行く末を見届けるまで人界にはもどらないと言ったその男は、まだ忘却の町にいるはずだった。
が、宿屋にも、どこにも、それらしい男はいなかった。
（どこへ‥‥？）
もとより、手練の忍びともあろうものが、たやすく見つけられるような身の隠しかたはすまい。
が、この異世界で「人」は無力だ。
天地丸が不安にかられて、その男を探そうと村外れまで駆け戻った時──
「何を慌ててる、お前らしくもない」
「彩蔵兄貴！」
大きく枝を張った樹の梢の中から、その声はした。
夜の、さらにか黒い樹冠の闇に、けれど天地丸の眼は探していた人の姿を見分ける。くつろぐように幹に背を預けた彩蔵が、彼を見下ろしていた。
「兄貴……」
精悍な風貌のその男は、樹下に佇む青年が奇妙な表情をしているのに気付いた。
木の葉一枚乱さず、音もなく彩蔵は天地丸の側に降り立つ。
「どうした？ 高野丸たちと喧嘩でもしたか」
「いや‥‥ただ、‥‥兄貴の顔が見たかったんだ」
「……『外』で話そうぜ。町中じゃ、落ち着かないだろ？」
逞しい、頼もしい背中が先に立って歩きだす。町の境界を出て、外へと──
「兄貴！」
道切りや道返しの呪法で守られた集落から一歩出れば、そこはあやかしの徘徊する異界である。思わず声をかけた天地丸に、
「お前、地張忍術にも結界法があるの、忘れてるな」
と、苦笑が答えた。
「そう心配するな。自分の身ぐらい、自分で守れる」
無言のまま、どれほど歩いたろうか。
「俺も、お前に言いたかったことがあるんだ」
足を止め、彩蔵は振り返った。
「俺は怒ってるんだぜ、天地丸」
真剣な口調であり、眼差しであった。静かだが、激しいものを裡に秘めたそれに、伝説の鬼神とまで呼ばれた青年が、気押されて立ち止まる。
「え？」
「俺がどれだけお前を探したか、知ってるか？」
一歩、天地丸へ近づく。
「お前が妲姫を倒してから、程無く姿をくらましたのは──鬼の姿から人の姿に戻れなくなったから、だそうだな」
「‥‥‥」
「何故、俺に打ち明けてくれなかった！」
裂かれた心臓から飛沫く血の様な、激しい叱咤。天地丸が初めて見る、感情を剥き出しにした彩蔵。
「人に追われ、独りで──そんな目にあって何故、俺の所へ戻ってこなかった！ 俺は、あの滅びた地張の里の近くにいた。知っていた筈だ、お前なら！」
眼を伏せてしまった天地丸の両肩を彩蔵が掴む。
「俺が、お前を恐れるとでも思ったか？ 姿かたちがどんなに変わろうと、俺がお前を嫌うことなどあるものか！」
指が食い込む程強く掴んだ肩をさらに引き寄せる。
「天地丸！」
びくりと、ようやく青年は顔をあげた。
「それとも」
とらえた視線をそらさず、彩蔵は押し殺した声で問う。
「もう、お前には誰も何も必要ないのか？」
「違う！」
弾かれたように天地丸は叫んだ。
「違う──」
きつく眉根を寄せ、天地丸は彩蔵に瞳を射抜かれたまま首を振った。
「それなら何故だ！」
「鬼なんか──醜い化け物なんかかばったら──彩蔵兄貴まで追われる。俺は、兄貴にまであんな思いをさせたくなかった！あんな──」
血を吐くような悲痛な叫びを、途中で天地丸は呑み込んだ。ぎりっと歯を食いしばり、顔を背ける。
彩蔵は我にかえった。月日が経ち、彼の弟分だった少年は驚くほど大人びた容貌に変わっていた。だがそれは宿命を受け入れた強さのせいだけではなく、否応なしに孤独に追いやられた、諦めがもたらしたものではなかったのか。
姿が変わっても、と先刻自分はそう言ったではないか。
心も同じだと、失念していた自分の迂闊さに彩蔵は唇をかんだ。
独りきりでも生きていけるような顔を装ったところで、孤独に傷を追わない人間はいない。
不覚にも、自分はその傷を最も残酷なやり方で暴いてしまったのだ。誰よりも青年の苦しみを理解していた筈の自分が。
（えらそうに兄貴面して、俺は‥‥）
彩蔵の手に、青年の微かな震えが伝わってくる。
こうして、この青年は幼いころから、どれだけの痛みを越えてきたのだろう。誰にも何も言わず、ただ独り、己の胸の奥深くに、苦しみも哀しみも押し隠し、暴れるその感情にに自らを傷つけ──
引き寄せていた肩を、彩蔵はさらに己の胸へ抱き込んだ。
鬼の姿になれば、自分よりも二回りは大きい、巨大な体躯に変化する青年。だが今、腕の中にある体は、鍛えてあるとはいえ、まだ少年期の面影を残して意外なほど頼り無く細い。
壮絶な戦いを、まだ幼い少年だった彼は小さな体で乗り越えてきた。
なのに、そうして己の命を懸けて救ったはずの人々の世界から疎まれ、忘れられ──
「兄貴‥‥？」
あやかしに傷を負わされたことはあっても、生身の人間との接触には慣れていない青年は、戸惑ったように逞しい腕の中で問う。
答えず、彩蔵はさらに腕に力を込める。
「‥‥俺は駄目な兄貴分だな‥‥」
絞り出すような呟きに、天地丸は激しく首を振った。
「そんなことはない、彩蔵兄貴はいつも俺のそばにいてくれた‥‥兄貴だけは、俺にも優しかったじゃないか！」
非情になれない忍びは犬にも劣る。その掟についていけなかった天地丸を、誰もが嗤い、辱めた。
ぼろ屑のように打ち捨てられたその彼を、何も言わず手当てし、支え続けたのは、彩蔵だ。
悪夢にうなされて目覚めても、彩蔵は必ず自分のそばにいた。
この男がいなければ、今の自分は死んでいたか──狂っていたかしていただろう。
甘い言葉をかけてもらったわけではない。むしろ、習練に関しては誰よりも厳しかった。けれど、それが彩蔵の優しさだと、天地丸は知っていた。自分が一日でも早く強くなる以外に、残酷な状況から抜け出す手段はなかったからだ。
見知らぬ肉親よりも、誰よりも、天地丸を慈しんでくれた男。
「だから、俺は──兄貴だけは、俺の宿命にこれ以上巻き込みたくなかった──」
「馬鹿野郎」
背に回していた手を、彩蔵は天地丸の髪へ潜らせ、その頭を自分の肩先へ引き寄せる。そしてもう片方の腕で、もっと強く、ひどく動揺しているらしい青年を抱きしめる。
「変な遠慮なんかするな。俺はお前の兄貴分なんだぜ」
母親にいだかれたことも、その面影さえ覚えていない天地丸に、その声と抱擁は暖かすぎた。
閉ざしつづけ、押さえつづけていた感情の岩戸がゆらぐ。
青年の震えが、大きくなる。
「──もう何処へも行くな──」
天地丸の慟哭に気付かないふりをして、彩蔵は自分も胸に迫る感情の波を押し殺す。
鬼でもなく、忍びでもなく、一人の人間の素顔に返って、青年は泣いていた。
天地丸を呪縛していた宿命の糸が解き放たれていく。
彩蔵は言葉もなく、ただ彼を抱きしめつづけていた。
「行くか」
「ああ」
夜明け前の深い闇の中で、自分自身を取り戻した青年は、晴れやかな顔で答えた。
「高野丸たちが待ってる」
最後の決戦。だが死地に向かう者の悲壮な覚悟は、天地丸には微塵もない。
恐らく、それはあの高野丸たちも同じなのだろう。
天地丸と同じ面差しをしたあの少年陰陽師も、自分の運命を自分で切り開く術を知っている。
「‥‥みんな、カタがついたら‥‥帰ってこいよ」
はっとした顔で、天地丸が振り返る。
「彩蔵兄貴‥‥」
「しけた顔すんな。全然、ガキのころと変わってないじゃないか」
くしゃっと天地丸の前髪をかきあげ、彩蔵は笑った。
「約束だぜ？」
「約束する。必ず、帰る」
彩蔵は頷いた。天地丸は、少しだけ笑い、そして走りだした。
まだ黎明の兆しの見えない空は、暗い。
だが暁の最初の一閃は、必ずその闇に射こまれる。
明けない夜はない。
何よりも確かな約束のように。
了
助けてドラえもんッ！（苦笑） こんなゲロ甘いものを正気で書いていたのですねえ、１０年前（爆）のワタクシは！いーやーホモエロよりも恥ずかティーッ！！（悶絶） あーもー、べたべた。らぶらぶ。今の私には書けないモノなのでかえって新鮮よね!(自棄)
さすがに多少手直ししましたが途中でもー放棄。自分でも素面で読めません…